学校長あいさつ

 本校は昭和22年に開校し、令和8年度に80年目を迎えました。「世界を小とせよ 奈良中生」を学校教育目標に掲げ、地域に支えられながら日々着実に教育活動を進めております。
 校歌の「知性をみがき(コツコツ)」、「愛情深き(ニコニコ)」、「からだを鍛え(ワクワク)」という歌詞にあるとおり、「知・徳・体」のバランスのとれた学力を育んでまいります。
 熊谷教育の土台である「熊谷の子どもたちは、これができます!『4つの実践』と『3減運動』」に、学校が率先して取り組んでまいりたいと存じます。保護者、地域の皆様のご理解とご協力をお願い申し上げます。

校歌・校章

 校章は、開校2年目の昭和23年に、当時の中学生からデザインを募集しました。当時の中学2年生「富岡冨美子さん」の応募した作品が現在の校章となっています。楢の木の葉、 三枚をかたどり、それぞれの葉は、『敬』『愛』『和』を示しています。
 校旗は、昭和39年に初代が作成されました。写真の2代目は、平成20年3月にPTAより寄贈されました。

令和7年度 学校要覧

奈良中について

石坂 養平氏について

本校の学校教育目標となっている「世界を小とせよ」は地域の偉人・石坂養平氏の言葉です。

〇 熊谷市中奈良出身。明治・大正・昭和を通じ、文芸評論家、政治家そして実業界に活躍。戦後は
 政界を退き、社会文化の向上に尽くした。

〇 1885年(明治18年)11月26日 埼玉県大里郡中奈良村(現:熊谷市中奈良)に生まれる。奈良
 尋常小学校(現:奈良小学校)、幡羅高等小学校、熊谷中学校(現:熊谷高等学校)、第二高等学
 校を経て、1906年(明治39年)に東京帝国大学理学部に進学したが中退。1910年(明治43年)に
 同文科大学哲学科に再入学した。「帝国文学」の「新自然主義の誕生」や「鈴木三重吉論」により、
 中央文壇に文芸評論家として認められた。

〇 父の死により郷里に帰った後も、1922年(大正11年)頃まで「文章世界」「早稲田文学」「新潮」
 「中央公論」「日本及日本人」等に評論・随筆を発表し続けた。特に「有島武郎論」で、有島武郎と
 論戦を展開したことは有名である。

〇 大正の後半に入ると政界に進出した。1920年(大正9年)埼玉県会議員に当選し、1922年(大
 正11年)には埼玉県会副議長に就任した。1928年(昭和3年)衆議院議員に初当選、通算四期在
 職した。

〇 政界への進出と同時期に、地元の産業組織の役職に就任し、次第にその活動範囲を地方から中央
 へ、農業から他産業へと拡大していった。

〇 奈良村農会長、奈良村信用販売購買組合長、大里郡乾繭販売利用組合長、大里郡農会長、大里郡
 養蚕業組合連合会長、埼玉県養蚕連合組合長、全国養蚕業組合連合会副会長、大里郡農業保険組合
 長、埼玉県農業保険組合長、大 里郡社会事業協会長、大里郡青年団長、埼玉県少年団長などを歴任。
 武州銀 行監査役、埼玉銀行取締役にも就任している。

〇 太平洋戦争終結後は政界を離れ、社会の文化的向上に尽力した。県文化財保護審議委員、県社会
 教育委員、県公安委員を歴任し、地域の発展に尽くした。

〇 また、地域の学校の校歌の作詞や記念碑などの碑文の大事を数多く手掛け、奈良中学校をはじめ、
 奈良小学校、大幡小学校、大原中学校、別府中学校、熊谷東中学校、妻沼西中学校、妻沼東中学校、
 熊谷高等学校の校歌を作詞した。

〇 1962年(昭和37年)には熊谷市名誉市民、1965年(昭和40年)には勲二等瑞宝章を授与された。

〇 1969年(昭和44年)8月16日死去。同29日市民体育館で市民葬が行われた。墓所は熊谷市下奈良
 の集福寺。享年83歳。
       <「埼玉人物事典」(埼玉県教育委員会編)1998年を一部改変>